第一章 「パイ」

●Vol:1

  「あー、また鬱のサイクルに入っちまったよ。」
  パイと別れてから心が沈んでなかなか浮上しそうにない。
  パイと最後に会ったのは彼女の故郷タイのチェンマイに行ったときだ。オレは彼女の親に会いに行った。オレはパイと結婚するつもりだった。去年の六月のことだ。

 チェンマイはタイの北部の都市で、タイ人に言わせれば美人が多いそうだ。北部の女は色が白くて肌がきれいと言われている。パイはチェンマイの近くの村で生まれ、高校のときにバンコクに来た。
  チェンマイの空港に着くとパイが迎えに来てくれた。心持ち緊張している。両親がチェンマイの近くの村のバンガローを予約しているらしく、オレたちはそこに向かった。市街を抜け、山道に入り、バンガローに着いた。
  え、バンガローって木で出来た家じゃないの?と、一瞬思ったけどまあ清潔そうだからこれはこれでありか。パイは電話で何かを話している。しかしタイ語は耳障りがいい。何言っているかぜんぜんわからないけど。
  「こっちよ。」
  と、言ってパイは歩き出した。パイの後姿、いつ見てもいい。ケツフェチのオレとしてはたまらない。
  「サワディー・カッ」
  中年の男が優しい声で手を合わせながら挨拶した。タイの挨拶は好きだ。手を合わせて「サワディー・カッ」という。心が和む。手を合わせるのは結構かしこまっているので、若いのどうしのときは手を合わせない場合が多いが、こちらが手を合わせれば、相手も手を合わせて返してくれる。日本のお辞儀と同じようなもの。お辞儀をされたらされた側は「返さないと失礼」という心理が働く。手を合わされたらお返ししなきゃ。なかなかいい習慣だ。対人関係を円滑にする。オレは特に両手が塞がったカワイイ女の子に手を合わせ、満面の笑みを浮かべて、「サワディー・カッ」とやるのが好きだ。女の子は困ったように荷物を持っている手をモゾモゾしながら健気にも手を合わせてくれる。その動作がたまらなく愛おしい。
  「お父さんよ。」
  パイはそう言って紹介してくれた。ワンチャイという名前らしい。クン・ワンチャイはそこそこに肉付きがよく、栄養状態が行き届いているという感じだった。パイが言うには五十歳ぐらいらしいが、半そでのシャツからは、血色がよく、タイ人独特の体毛が薄い褐色の肌をした腕をのぞかせていたが、そこには数箇所古傷の痕があった。彼は優しい目で部屋の中に入ることを促した。

クン=タイ語の〜さんのような敬称。名前の前に付ける

 部屋の中はこぎれいで、糊の効いたシーツがきっちりと敷かれているベッド、エアコン、テレビ、冷蔵庫などが置かれており、壁には有名な画家のコピーの絵まで飾られていた。奥さんらしき女性と娘が二人、部屋の中にいた。オレはクン・ワンチャイと少し話をした。ここの村はきれいですね、とか、このバンガローは新しくていいですね、とかとりとめのない話だ。むこうはむこうで、タイは好きかとか、日本は今暑いのかとかこれと言って意味のない質問をしてきた。クン・ワンチャイはタイ語しか話さない。パイを介して話をした。
  少しの間話をしたが、お互いにかなり疲れてしまった。初対面、恋人のお父さん、娘をもらいに行くという状況、外国人、ことばが通じない、このトリプルパンチ以上の状況で会話を持たせるのはかなりキツい。クン・ワンチャイはパイと何かを話し出すと、そこにいたほかの人たちも会話に加わりなにやらいろいろと話し出した。オレは相変わらず何を言っているのかわからない。そんな状態が二、三十分続いた。オレは完全においていかれた。まあいい。家族水入らずだ。
  しばらくするとパイは立ち上がり、
  「ウィー・ゴー」
  と、言って部屋を出た。オレはパイを追い、部屋にいた人々に会釈をして出た。バンガローを出たところでパイは立っていた。オレは後ろから彼女を抱き、うなじに軽くキスをした。彼女の息が少し漏れた。パイは背中を向けたまま、オレの頭に手を廻した。彼女の体は暖かかった。
  外はすっかり暗かった。街燈の周りを蛾が何匹か飛び回っている。闇の中から虫だか、蛙だか、ヤモリだかの声が聞こえている。オレたちは自分のバンガローに戻り寝た。いや、その前に熱いメイク・ラブはかましておいた。いちおう基本として。

  次の日ドアのノックの音で起こされた。ノックの音が柔らかい音だったので、それとは気づかず、しばらく無視していた。パイが寝ぼけた声でノックなんじゃないというからオレはしぶしぶ起きてドアを開けた。クン・ワンチャイが笑顔でそこに立っていた。
  「グー・モーニー」
  「ぐっと・もーにんぐ。」オレはまだ完全に寝ぼけていた。
  「トゥデー・ウィー・ゴー・ドゥリン・コーフィー」
  と、言って、ドアから首をのぞかせタイ語で何かペラペラとしゃべった。部屋の奥のほうで呻きとも返事とも取れる声が聞こえてくると、クン・ワンチャイは引き上げた。オレは部屋の奥に戻った。部屋の奥には昨夜のエロの臭気が充満していた。クン・ワンチャイにバレバレだな、こりゃー。ま、いいか。
  再びベッドに戻ると、パイがいった。山の上に景色がいいコーヒー屋があるからそこに今から行くそうだ。オレたちはシャワーを浴び、身支度を整え、外に出た。あ、その前にクイックなファックを軽くかましておいた。とりあえず。

 部屋を出ると晴れていた。日差しが眩しい。空気もそれ程暑くなかった。バンコクに比べたらチェンマイの方が湿気が少なく過ごしやすい。クン・ワンチャイがバンガローの前で女と話していた。昨日とは別の中年女性だ。パイが彼女に近づき何か親しげに話していた。彼女の表情は穏やかだった。

 パイ。愛しのパイ。オレはバンコクのクラブで彼女に出会った。パッポンやタニヤのクラブじゃない。タイの若者たちが行くちょっとオシャレなかっこいいクラブだ。バンコクに行ったのはオーストラリアで知り合ったタイ人の友達の結婚パーティーに招待されたからだ。その月は若干金銭的に苦しかったが、対人関係を重視するオレとしては断るという選択肢はなかった。タイの友達に連れて行かれたそのクラブでオレはパイに出会い、心を奪われた。
  パイは優しい女だ。親を大切にし、彼氏であるオレを大切にする。何でもやってあげようとする。爪まで切ってくれようとする。深爪しそうだったからさすがにそれは断ったが、気持ちはとてもありがたかった。普段は優しいが、タイ人の女独特の気性の荒いところがあって、たまに地雷を踏んでしまうと、怒ってどっかへ消えていってしまうことがたまにある。一度へそを曲げられるととにかくこちらは謝るしかない。それから衝動的なところがあって、何か思いついたらもう行動に移っており、行動してから考える。オレも多少そういう傾向にあるのだが、パイの素早さには負けてしまう。街を一緒に歩いているときは大変だ。なにか屋台で気に入ったものを目にすると、次の瞬間にはもうお金を払っているし、近くへ小旅行に行くと思い立てば、もうクルマはもうそっちの方向へ走り出している。

  「ケン、私のママね。」
  と、パイはその人を紹介した。
  「え、昨日の女の人はお母さんじゃなかったの?」
  「あの人は再婚した新しい奥さん。ママとパパは離婚したの。」
  なるほど、そういうことか、だから昨日パイとあの女の人はなんとなく距離感がある感じだったんだ。女の子に対しても妹に対する態度とはなんか違っていたのはそのせいか。昨日はバンガローに帰るとすぐに戦闘モードに入って、そのまま眠ってしまったからいろいろ聞く暇がなかった。それにしても、クン・ワンチャイ、ニコニコ顔の善良そうな顔をして、オンナに対してはなかなかの精力家だったとは。
  「ユー・ドラーィ」
  と、パイはオレを小突き、近くに停めてあるトラックタイプの四駆を指差した。トヨタのだ。
  「私は自分の車でママを乗っけていくから、ケンそっちお願いね。」と、言ってパイはサッサと自分の車に乗ってしまった。
  何でオレの運転?という疑問はあったけどまあいいや。オレは鍵をクン・ワンチャイから受け取り、トラックに乗り込んだ。助手席にクン・ワンチャイ、後部座席に彼の新しい奥さんと娘たちが乗り込んだ。そして、どこからともなく男たちがワサワサと現れ、トラックの荷台に乗り込んできた。
  なんだ?こいつらは。と怪訝そうな顔をしていると、
  「マイ・バザー」と、クン・ワンチャイはにこやかに言った。
  なるほど、こいつらは兄弟、親戚縁者ってことか。それにしてもどこから湧いてきたんだ。昨日はいなかったぞ。オレはクン・ワンチャイの指示でクルマを走らせた。クルマはすぐに山道に入り、かなり険しい道になった。荷台の男たちは相変わらず静かに座っていた。しかし、こんだけ居ると一人ぐらい落ちてもわかんねぇな。それにしても、この状況を若干何とかしてもらいたいものだ。クルマの中にいる人たちと会話が出来ない。オレはサイドミラーを見たとき、クン・ワンチャイと目が合い、彼は黙ってはにかんだ笑みを浮かべた。少ない会話の中からわかったことは、このトラックはパイが買ってあげたものらしい。パイ、お前はなんて親思いなんだ。

 山道をしばらく運転すると、そこにコーヒー屋がぽつんと立っていた。コンクリートで出来た建物で、これと言って特徴のあるものではなかった。店はオープン形式になっており、外から誰でも自由に出入りできる。粗末な折りたたみ式の丸テーブルと、鉄パイプの骨組みにビニール張りのシートの古びた椅子が並べられてあった。冷房はなく、天井にはファンが物憂げにクルクルと回っている。壁には色あせたコカコーラのポスターが貼られていた。
  オレがコーヒー屋の中に入るころには荷台にいた男たちはもう何時間もそこに座っていたかのようにすでにくつろいでいた。オレはどこに席を取ろうかと少し様子を伺っていると、後ろからパイが腕を絡ませ、近くにある席へと導いた。その後に彼女の母親が彼女の隣に座り、父親がオレの隣に腰をかけ、その隣に後妻と娘たちが座った。
タイに来て現妻と前妻、その夫と娘たちが一同に介するシチュエーションに遭遇するとは思っても見なかった。パイの母親とクン・ワンチャイはなんとなく少しよそよそしい。娘たちは黙って座っている。オレはテーブルの下でパイのひざに手を置いている。
ヤセ細った店の店主がボコボコにへこんだ古いアルミトレイを震えながら両手でコーヒーを運んできた。店主はテーブルにトレイを置くと、これもまた震えた動作で一人ひとりの前にコーヒーを並べた。その手は黒く、痩せて骨ばっていた。不精に伸びた爪には真っ黒な爪垢がたまっていたが、小指の爪だけは特別に長く、なぜかそれらだけはきれいだった。

 コーヒーはこれと言って特別うまいというものではなかった。と、えらそうなことを言っているが、オレ自身コーヒーの味はよくわからない。口に入れれば苦い。ただそれだけだ。それよりも気になったのは、出された時点でコーヒーはすでに冷めていたということだ。まあ、猫舌のオレにはそのくらいがちょうどいい。
  オレは相変わらずパイの腿に手を置きながら彼女の肉感を楽しんでいると、ヨレヨレになった僧侶が店に入ってきた。何でこんな山奥に坊さんがいるんだ?しかもこの人、歩いてこの山を登ってきたのか?こんなヨレヨレなのに山なんか登れるのか?近くまで車で来てそっから歩いたんじゃねぇか?そういえば以前日本で托鉢僧が街中で異常に繁殖したことがあったよな。ワイドショーかなんかで言ってたけど、あいつらは偽者でカネ目的でやっていたらしい。笠の裏にはアンチョコみたいのがあってそれを読んでいたらしい。その類か?
  オレがいろいろと僧侶に対する文句を考えているのはよそに、他のタイ人たちは黙って立ち上がり、手を合わせた。僧侶は一人の前に立つと、その男は僧侶にお布施を渡し、僧侶は手を合わせ、男も手を合わせた。それをその場にいた一人ひとりに回っていった。オレの前にもやってくると、オレも他の人たちがやったのと同じように、お布施を渡し、手を合わせた。僧侶は痩せていて、法衣から覗かせた肩は骨と皮だけのような感じだった。何か浮世離れをした雰囲気を持っていた。
 僧侶は最後に店に主人の前に行くと、主人はコーヒー豆の入った袋を渡した。僧侶は受け取り、ヨタヨタと去っていった。コーヒー?なんでそこでコーヒーなんだ?コーヒーが無類に好きな坊さんなのか?それとも転売するのか?などと考えながらパイの方を見ると、パイは別に何も感じていないらしく、ただスマイルを浮かべただけだった。

 その後少しの間歓談をし、店を出た。会計を済ませると、店主が袋いっぱいに詰まったコーヒー豆をオレに手渡してくれた。オレはいくらだと訊いて代金を払おうとすると、店主は受け取らない。パイが言うには、この地は昔から痩せていて、作物が実らなかったのだが、それを見かねた王様が、コーヒーの木を植えたので、それで土地の人は生活できるようになったらしい。なるほど、いい話だ。ここの山間部の農村がコーヒー栽培によって生活できるようになったのはわかった。だが、それとオレをここにわざわざ連れて来たクン・ワンチャイの意図が読めない。ここのコーヒー屋のコーヒーがタイで一番うまいのか?それともここで昔彼がパイのママにプロポーズしたというスイートメモリーでもあるのか?まあ、それはどうでもいい。

 帰りがけにクン・ワンチャイはチェンマイの自宅を案内してくれた。コンクリートで出来た二階建てのその家はなかなか立派だった。話によるとこの家もパイが買ってあげたらしい。すごいな...パイ...。それから次は彼らが住んでいたかつての家も案内してくれた。その家はかなり貧しい地域の一角に位置し、ボロボロに錆びたトタンのようなもので出来ていた。まだ立っているのが不思議なくらいそれは崩れかけており、中にはどこかの家族が住んでいるようだった。子供が家の周りをちょろちょろと走り回っていた。パイの両親や親戚はそのままチェンマイに残り、オレたちはバンガローに戻った。

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